*久しぶりにTVドラマをゆっくり観た。

   <女たちの赤紙>  2夜連続だったが、

     1日目は見逃し、2日目を全部観た。

観ているうちに今は年老いた母の若き日の看護婦としての姿と重なった。

  子どものころ、よく写真をみせてくれた、あの赤十字の白衣そのままだった。

 大きな看護帽に赤十字のマーク、あの白衣の形も当時の物そのままだったよう。

   そんな仕事をしていたせいか、当時としては写真が沢山あって

     家族でよく写真を見ながら話を聞いたことも思い出した。

    世田谷にあった陸軍病院に勤務していたという、

  母の胞帯を巻くスピードなど、、、子供心にも誇らしく上手、、、と思っていた。

     よく話してくれた、エピソードを思い出す。

   負傷兵の入院患者との慰労に医者や看護婦も一緒に野球をしたらしい、、。

     足が無くて、手がある人がバットを持ってバッターボックスで打ち、

         手が無くて足が元気な人が走る、、、、

   何人もで一人の役を果たす姿の不思議な光景が日常だったことなど、

      この番組で思い出した。

 実家から<父危篤>の電報が届き、実家に戻ったら父親は元気だったことなど、

      そしてその時友人たちは満州に行ったこと、、、

  子どもの頃に聞かされた話を思い出して、

        久しぶりにテレビを観て涙した。

すっかり年老いた母の若かりし日の姿を見た思いの番組だった。




番組最後に1972年に日中国交正常化となったという字幕が流れた。

    その数年後、中国との国交正常化の担い手として

私も埼玉県の<青年の翼>という100名のうちの一人となって、

    北京や太原などを訪問した。 

青年の船というのが今でもあるが、飛行機で行ったので青年の翼だった。 

       訪中前には当時の畑知事から秩父音頭などをご指南頂き

         現地で交流したことなども思い出した。

   学校、一般家庭、機械工場、絨毯工場、官庁、いろいろな所を訪門した。

     万里の長城にも行き、劇場では本場の京劇の鑑賞もした。

       公的な旅だったので現地では素晴らしいおもてなしも頂き   

     この<青年の翼>は当時新聞などにも掲載された。

こんなことも思い出させてくれた、番組だった。

    再放送があったら全編を観てみたい。

戦後生まれの私は、本当のことを何も知らずに生きてきたような気がする。

   何ができるかわからないが、これからできる範囲の役割を担いたい。