*10月1日(日)夏ごろから体調を崩していた、

So〜Un(植田一臣)が心筋梗塞を発症して急逝しました。
生前お世話になりました皆様には心よりお礼申し上げます。


5日、身内だけで静かにお別れの会を致しました。



玄侑先生が三春でお経をあげてくださり、参列者の般若心経の読経で
冥福を祈り、<子供時代の楽しかった思い出の写真と音楽と美しい花>で見送りました。

音楽は小学生の頃よく弾いていた、「コンドルは飛んでいく」、を
キーボードで奏でて頂きました。
海外によく旅をする義叔父からは<まるでペルーの上空をコンドルが飛んでいるような演奏だった>、So〜Un も幼い時に「鳥になりたい・・・」と言っていたことを
思い出した時間でした。


詩集『 The Quite of  Blue 』の編集をしてくださった、
高橋れい子さんは次のようなメッセージをくださいました。
一臣さんのお知らせをいただきまして、ありがとうございました。
お知らせを読ませていただいたあと、The Quiet of Blue の、
大切に紡がれた言の葉を感じながら音楽を聴きました。
一臣さんは微細な波動となって、今ごろきっとこんな美しい世界を
イルカのように泳いでいるのではないかと思いました。
「無数の星が燦然と 輝きながら讃えた 夏の夜の宙を泳ぐ
イルカたちの透明な 瞳の中に秘められる 銀河の和歌の美妙な波動」・・・




大学を卒業してからは、詩を作るかたわら高野山大学大学院(通信課程)で
今日まで長い間勉強を続けてきました。

大学院では密教学を学び、今回家族が資料を整理していましたら
本格的に詩作りを始めたころの資料がみつかりました。




そこには、次のように記されています。

『なんでもない平凡な日々の生活の中で、数百年・数千年前の先人たちの声に耳を傾け、そこから新たな可能性を探る作業に、ぼくはやはり小宇宙(ミクロコスモス)を見てしまうのである。
ぼくが詩歌を本格的に書き始めたのは高野山大学大学院で学び始めたときからである。
かなり前から密教学の研究はしていたが、高野(こうや)に在学した瞬間、 ぼくの頭の中で急に何かが光った。
それはちょうど、作家の村上春樹氏が神宮球場ヒルトンの二塁打を見た瞬間「いま自分は小説が書けるんだ」と思い立ったときの経験に非常に似たものだと思う。
ぼくは、高野山の1200年の歴史とダイレクトにコミットした瞬間、その経験は、ぼくの中の何かを刺激し、ぼくは無意識にパソコンの前に座った。そしてごく自然に自動筆記が始まったのだ。
ぼくは何も考えず、ただ身体が求めるままにキーを叩いていった。そこには、若い頃さんざん悩んできた文章に対する努力やコンプレックスや気負いのようなものが、全くと言うほどなかった。
頭で考えるのではなく、指と耳で考える。多分それは、ピアニストと同じ感覚だと思う。
ぼくはピアノの鍵盤を叩くようにパソコンのキーボードを叩いていった。
そうして生まれたのがこの詩歌たちである。
ぼくは、詩歌(うた)で曼荼羅を描いていたのだ。』 


      植田一臣 高野山大学大学院レポート「六大と四曼の関係について 」より


高橋れい子さんは詩集のイメージについて、
<言葉と音の境界ができる以前、初源の光が満ちている
「時の小川」の淵(ふち)からきらめくひとすじの蚕(かいこ)の糸のように、
とぎれなく導き出される言(こと)の葉(は)・・>と、このように書いてくださいました。


そして2冊目は文芸社から自費出版した
  『 I can’t make you love me 』です。

やはりこの簡単すぎるタイトルについても義叔父が深く解説してくださいました。

詩集からその一部です。

新月(つき)の光が揺(ゆ)れている  ギムレットの水面(みなも)に
  添(そ)えたライムの爽(さわ)やかな  詩(うた)が漂(ただよ)う
カウンターの上

・冬の暖炉(だんろ)の温(ぬく)もりが  静かに溶かす銀色の
   雪の記憶(かけら)がゆっくりと 床に落ちて作る模様




この詩集は鶴ヶ島市立図書館に2冊あり、その1冊は郷土の作家コーナー、
そしてもう1冊は詩歌のコーナーに所蔵されています。 


2冊とも、「音楽を聴くように、詩を読んでください・・・作者より」と記されています。




多くの方からお悔やみのお言葉、メッセージを頂きました。
有難うございました。